通産成績:27戦6勝
父は80年代欧州最強の呼び声が高いダンシングブレーヴ、母がケンタッキーオークスなどアメリカのG1を7勝した名牝グッバイヘイローという世界的な良血馬ということでデビューから注目されていた。
ジョッキー福永祐一の回想によれば、もともとは騎乗予定だった武豊が毎日王冠に出走するジェニュインの騎乗依頼を受けたことにより、調教師の坂口正大に断りの電話をかけた際に福永がいたために騎乗が決まったのだという。
こういった不思議な縁とも言える経緯からデビューから4歳までは、デビュー2年目の福永祐一が主戦騎手として手綱を取ることになった。
デビュー戦、黄菊賞と順当に勝ち上がり、2連勝で重賞の東京スポーツ杯3歳Sへ駒を進めると、2着のマイネルラヴに2馬身半の差をつけ、無傷の3連勝で初重賞制覇となった。 鞍上の福永にとっても初めての中央の重賞勝ちであり、これで堂々とクラシック路線を歩む資格を得たともいえるだろう。 続くラジオたんぱ杯3歳Sでは、断然の一番人気に推されたものの、最後の直線でロードアックスの強襲に合い2着と初黒星を喫してしまう。
1998年度の初戦は皐月賞トライアルの弥生賞。 ここでも引き続き1番人気となったが、ジュニアカップを圧勝してきたセイウンスカイに逃げ切られてしまう。 また、きさらぎ賞勝利で真価を発揮した3強の一角を担うスペシャルウィークにも全くかなわず、2頭から4馬身離された3着とここにきてトーンダウンし始めていた。 評価を落とした皐月賞では、スペシャルウィークを抑えこみ猛然と追い詰める末脚を見せたが、逃げたセイウンスカイを捕まえきれず逃げ切りを許した。 続く日本ダービーでは、道中で折り合いを欠いてしまったため、馬との呼吸が合わず予想しえなかった逃げを打つことになった。 当時で史上2番目にあたるハイペースを演出することになり直線では余力なく失速し14着と大敗でクラシック前期を終えた。
秋に入り神戸新聞杯は、折り合いの名手・岡部幸雄に乗り変わったものの、ボールドエンペラーとの叩き合いとなり3着に敗れた。 続く京都新聞杯はスペシャルウィークを苦しめたもののクビ差2着と素質を見せながらも勝ちきれない競馬が続いた。 その後菊花賞で5着、有馬記念で6着と素質の片鱗を見せたが、相変わらず気性の悪さが災いし詰めの甘い競馬が続いた。
しかし、1999年は年明け早々から柴田善臣騎乗でG3東京新聞杯、G2中山記念を連勝したことにより再び息を吹き返したかのように見えた。 タイキシャトルの抜けたマイル路線の中心的存在と期待されたが、3ヶ月ぶりの安田記念は11着と見所のない惨敗でつづく宝塚記念もふるわなかった。 秋緒戦の毎日王冠を横山典弘騎乗で5着、天皇賞(秋)を柴田善臣で7着と無残な成績に下降し、秋の短距離GI競走参戦した時には福永祐一の手に戻っていた。 この時の騎乗にあたって、福永は頭を丸める悲壮な想いでレースに臨んでいた。 マイルチャンピオンシップでは、武豊騎乗のブラックホークをかわすも、春秋マイルGI制覇を達成した王者エアジハードの横綱相撲の前に2着に敗れた。 続くスプリンターズステークスでもブラックホーク、アグネスワールドを捕まえきれず3着と、またしても勝ちきることができなかった。
明けて2000年の6歳、血統的背景、新境地開拓の意味でも期待された初ダートのフェブラリーステークスでは、1番人気に推されるも1枠に入ってしまい慣れない砂をかぶったことで13着に惨敗した。 調教師の坂口は批判を浴びたが、本馬に「GIタイトルを」という意志は揺るがずキングヘイローのG1制覇への試行錯誤が続いた。 次の高松宮記念は再び柴田善臣が騎乗し、直線で粘っていたブラックホーク、アグネスワールドなどのスプリンターを大外からゴール直前で差し切り、ついに悲願のGI初制覇を成し遂げたのだった。 この勝利に坂口は人目もはばからず涙したと言う。なお、このレースで2着入線のディヴァインライトに騎乗していたのは福永祐一だった。
その後、福永祐一に乗り代わり安田記念を日本馬最先着の3着したものの、休養後の秋競馬では目立った活躍をする事は出来なかった。 ラストランとなった有馬記念では後方から追い込み4着と健闘したが、福永騎乗でのGI制覇は叶わないままの引退を迎えることとなった。
活躍したキングヘイロー産駒を見ると、早いうちから活躍し始め、着実な成長力を経て一流馬へと昇華される。 2歳から活躍したローレルゲレイロを見ても初G1は5歳と遅かった。 トモの甘さが成長により解消した成長力が成功した馬に見られる傾向である。 コンスタントには走らないが、数少ない産駒からカワカミプリンセスのようにクラシックで活躍する馬も出ており一発大物が期待できる。